玄侑 宗久 (げんゆう・そうきゅう)先生
心のレジリエンス
この国の諺(ことわざ)を眺めると、対立する意味合いの諺が必ずと言っていいほどあることに気づく。たとえば「善は急げ」と「急がば廻れ」、「嘘も方便」と「嘘つきは泥棒の始まり」、「一石二鳥」と「虻蜂取らず」、「大は小を兼ねる」と「山椒は小粒でピリリと辛い」、「栴檀は双葉よりも芳し」と「大器晩成」など、キリがないからこの辺にしておくが、要するに古人は我々に両極端の考え方を両方踏まえたうえで、現実的な判断は直観で決めよ、と教えているかに思える。
これは正に仏教の「中道」で、儒教の「中庸」とは全く違う。「中庸」はとにかく極端に近づかないこと。一方の「中道」は両極端を知ったうえでないと歩めない道だ。両極端の双方を肯定する考え方は「両行」といい、中国の思想書『荘子』に由来するが、禅は大いにこの考え方を取り込み、二元論を超えようとした。日本人の寛容さにも、そして心のレジリエンスにも、両行は深く関係しているような気がする。 『菊と刀』を書いたルース・ベネディクトには矛盾としか見えなかったようだが、私はこの「両行」にこそ日本人独特の特長が秘められているように思う。
ただ、両極端の間のどこに着地すべきかを、日本人は「直観」で決める。そのため直観を磨く多くの「芸道」が発達したわけだが、これが欠けると単に「優柔不断」に終わってしまう。決めかねて身が痩せそうな状態を「やさし」と表現したが、「やさし」いだけではレジリエンスにもならない。
直観の磨き方も含め、日本人独特の心のレジリエンスについて考えてみたい。
プロフィール | |
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玄侑 宗久 (げんゆう・そうきゅう) 1956年福島県生まれ。慶應義塾大学中国文学科卒。さまざまな職業を体験し、その後京都天龍寺専門道場へ入門。 またYouTube「三春の風」も昨秋から開始。 |