これは、皆さんもよくご存知の野口 英世 先生の2つの名言から引用させていただいたものです。
忍耐は苦し、しかれどもその実は甘し
-Patience is bitter, yet its fruit is sweet.変えられるものが二つある、それは自分と未来だ
-There are two things that can be changed: oneself and the future.
1876年〈明治9年〉11月9日生まれで、本日が誕生日で、来年の学会時は奇しくも生誕150年となります。福島県三ツ和村三城潟(現猪苗代町)で生まれ、1928(昭和3)年5月21日にアフリカで亡くなりました(享年51歳)。ニックネームは、ヒューマンダイナモ(人間発電機)だったそうです。
今でも、私の周りで野口先生の足跡をたどることができます。
1897年(明治30年)
5月 済生学舎入学。近藤次繁博士による右手の再手術を受ける。
10月 医術開業後期試験に合格し、医師資格を取得。高山歯科医学院講師となる。
11月 順天堂医院に勤務。1898年(明治31年)
4月 内務省伝染病研究所(北里柴三郎所長)助手として細菌学研究に従事。1899年(明治32年)
4月 フレキスナー博士の東京各地視察の案内兼通訳の任にあたる。
5月 横浜海港検疫所に検疫医官補として勤務。
10月 清国・牛荘(現・営口)に派遣され、国際予防委員会中央医院において感染症防疫業務を担当。
*済生学舎
現在の東京科学大学裏にあるホテル東京ガーデンパレスの地に校舎が再建されていた。
*横浜海港検疫所
北里柴三郎先生の伝染病研究所の研究助手だった野口先生が海港検疫医官補として赴任した。入所して1か月で,横浜港に入港しようとしていた「亜米利加丸」2名の乗員から日本初のペスト患者を彼が発見し隔離した。この功績により北里先生の推薦を受けて,当時ペストが流行していた清国・牛荘(ニューチャン)に国際予防委員会の一員として派遣され、翌1900年には渡米しシモン・フレキスナー博士のもとで国際的な活躍を果たすことになった。横浜検疫所での実績は彼の大躍進の第一歩だったと言える。
1.梅毒スピロヘータの研究
純粋培養に成功し、神経梅毒患者の脳や脊髄からスピロヘータを証明した。
2.黄熱病研究
1918年にエクアドルに赴任し、黄熱病の病原体特定に成功した。
3.蛇毒研究
最初の仕事は蛇毒に関する研究であったが、これが評価され、デンマーク国立血清研究所に留学し、細菌学の基礎を学んだ。
会長 森 雅亮
東京科学大学 生涯免疫医療実装講座
聖マリアンナ医科大学 リウマチ・膠原病・アレルギー内科